観察台湾

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台湾独立運動の英雄〜神話となった鄭南榕〜


「鄭南榕」、という人物をご存知でしょうか?日本での知名度は、いまいちかも知れません。


鄭南榕が台湾でニュースになっていたので、少し紹介したいと思います。

台南市の成功大学で、キャンパス内の広場の名前を決める投票が行われました。教師と学生3000名によって、 「南榕広場」と決められたのですが、大学側がストップをかけたことにより、学生の間に波紋が広がっているようです。大学側の言い分は、「あまりに政治的すぎるから」とのこと。ー

http://www.chinatimes.com/newspapers/20140615000274-260102

 

この鄭南榕という人物は、台湾の民主・独立運動を語る上では外すことのできない、象徴的人物です。独立運動の活動家の回顧録などを読んでいると、度々巡り合う人物です。

 

先般の、立法院を占拠したひまわり学生運動でも、彼は運動のシンボルでした。
台湾独立と言って我々が真っ先に思いつくのは、金美齢さんかも知れません。鄭南榕は、その金美齢さんとも深い関わりがあります。

f:id:shinkichi0202:20140615154722j:plain

http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E5%8D%97%E6%A6%95

 

1990年代初頭に至るまで、戒厳令下の台湾内部で「台湾独立」を主張することはご法度。

 

時の国民党政府の存在理由は「大陸反攻」「中華復興」にありました。

 

つまり簡単に言ってしまえば、「我々は中国における唯一の合法的政府である。悪の根源中国共産党を倒さねばならない。こうした特殊な戦争状態下にあるのだから、自由を制限し戒厳令をしく。台湾の同胞は同じ中国人として、大陸の同胞を解放するために共に努力しなさい。」というのが、国民党政府の主張でした

 

そんな状態ですから、台湾内部で「民主」「台湾独立」を主張することは、国民党による弾圧、投獄、更には命の危険さえありました。「中共のスパイ」、との濡れ衣も着せられました。(戦後の台湾政治史については、若林正丈『台湾の政治』が最も詳しい)

 

そんな中、果敢にも命をかけて「台湾独立」「100%の言論の自由」を主張したのが、鄭南榕でした。彼は国民党政府による弾圧の中、焼身自決します。自らの命を、台湾の民主・独立に捧げたのでした。


ー鄭南榕ー(以下、鄭南榕基金会ホームページより抜粋)

1947年、228事件の年に生まれる。父は日本統治時代に台湾にわたってきた大陸人。母は、基隆市出身の台湾人。

 

228事件中、外省人への攻撃が多発するが近隣住民の庇護の下難を逃れる。後に彼が強烈に台湾独立を主張し、台湾に殉ずることも惜しまなかったのには、228事件との深い関わりがある。

 

「第一、台湾が民主政治へと歩みだすには、まず国民党の統治神話を破らねばならない。台湾は独立してこそ、初めて本当の民主化を行える。初めて人民主権へと立ち返ることができるのだ。第二、228事件が発生したのは、中国と台湾の経済、文化、法治、生活水準の差があまりにも広かったためである。併合を強行したため、自然と悲劇が生じた。今、こうした状況が再度海峡両岸に生じている、台湾は独立してこそ、228事件の再来を防げるのだ。」と彼は考えた。

 

成功大学工学院で学ぶも、哲学的思想的興味から輔仁大学、台湾大学の哲学部へ編入。彼は古典的な自由主義、個人の尊厳を堅持し、その価値の追求へと向かった。

 

1981年「深耕」「政治家」などの雑誌に寄稿を始める。この頃、度々立法院へ足を運び議事を傍聴。一度座ると、一日中座っていた。立法院を政治観察、ニュース研究、報道作成の教室にしていた。

 

1984年はじめ、鄭南榕は雑誌を立ち上げるため新聞局に発行人として登記を行う。が、当時の警備総部の発行禁止、停刊処分に備え、18も免許を申請する。

 

1984年3月12日、「100%の言論の自由を勝ち取る」と謳う週刊「自由時代」シリーズを発刊。激動の中、この自由時代シリーズは、鄭南榕の焼身自決後半年まで続く。計5年8ヶ月。出版数、302期。週刊自由時代は国民党の言論統制を顧みず、当時の政治の舞台裏を暴き、客観的で忠実な報道を貫く。そのため、発禁処分の最多記録をマークした。

 

1986年から鄭南榕は当時の政治的タブーを破りにかかる。自由主義の信念と行動を強め、519緑色行動を計画。民衆を集め、台北龍山寺で集会を開き、39年にわたる戒厳状態に抗議した。

 

1987年、228事件平和促進会立ち上げ。台湾各地で講演を行い、228事件の真相解明と、名誉回復、族群(※台湾内部のエスニックグループ、ここではいわゆる内省人外省人の対立が想定されていると思われる)の和解を要求。

 

1987年4月16日、台北市の金華中学の公開講演会にて、鄭南榕は意気揚々として演台に立ち、はっきりと述べた。「私は鄭南榕、私は台湾独立を主張する。」一度また一度と、公開講演の場で鄭南榕は群衆を前にして、目を輝かせて言った。「私は外省人の子供だ、しかし私は台湾独立を主張する。」

 

1988年12月10日、週刊自由時代に「台湾共和国新憲法草案」が載る(※鄭南榕への最後の弾圧のきっかけとなったこの憲法草案の作者は、当時日本に亡命中であった独立運動家で学者の許世楷氏。日本留学中より、現在の台湾独立建国連盟で活動、金美齢女史も同連盟で活動。陳水扁政権時代には、駐日代表も努める)。

 

1989年1月21日、 鄭南榕は反乱の罪に問われ裁判所への召喚状を受け取る。100%の言論の自由を堅持するため、彼は誓う。「国民党は、私の死体しか捉えることはできない、私を捉えることは不可能だ。」

 

同年1月26日、雑誌社編集室内での籠城開始。編集室の机の下にガソリンを3ケース起き、テープで緑色のライターを括りつける。また雑誌社内外を工事して固める。各地から駆けつけた支援者が、軍と警察による身柄拘束の強行を防ぐため、日夜警備にあたる。

 

同年4月7日明け方、国民党の大軍が押し寄せ、軍と警察は実弾を装填、幾重にも包囲を始めた。雑誌社への強行突破を開始。鄭南榕が編集室へ飛び込んだ後、業火が起こる。編集室での籠城71日の後、自由へ殉じたのであった。

http://www.nylon.org.tw/index.php?option=com_content&view=article&id=8&Itemid=6


あまり知られていないかもしれませんが、かつて日本は台湾独立運動の最前線基地でした。活動家の多くは、日本へ留学し、二度とは祖国へ戻れないという覚悟で運動に身を捧げました。実際、彼らの多くは1990年代初頭まで、帰国することができませんでした。

 

台湾へ戻れば投獄される。海外にいては所詮流浪の身。亡命先でも、厄介者扱い。国民党のスパイの影に怯えながら日々を過ごす。まさに人生を賭けた活動だったようです。彼ら一人ひとりが鄭南榕になる可能性を持っていました。

 

日本人の支援者もいました。日本語の本ですと、その方の著書が一番活動の中身を知ることができると思います(宗像隆幸『台湾独立運動私記』、『台湾建国』)。

 

彼らの回顧録は、下手な小説よりもよっぽど面白いです。にわかには信じがたい、映画かまるで英雄譚です。小説と違って、実際に起きたことだからすごいです。

 

彼らの願ったような台湾独立は、まだ達成されていません。

 

陳水扁時代には国策顧問や駐日代表といった形で、活躍もされました。そんな活動家の方々も今では老齢になり、鬼籍に入られた方もいらっしゃいます。 彼らは今何を思いながら、台湾の現状を見ているのでしょうか。

 

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