ウヨクのつぶやき(旧観察台湾)

元々は台湾の政治、文化、芸能など、台湾ネタを扱っていましたが、今は気ままな浪漫派ウヨクの思いつきを書いています。たまに、台湾にも触れていきたいです。

台湾と香港と中国

台湾の中国時報のコラムをご紹介。

 
 
最近ではあまり報道で目にしなくなりましたが、香港でのデモの様子が一時新聞紙上をにぎわせていました。またご記憶がおありの方もいらっしゃるでしょうが、台湾でも今年、学生による国会占拠がありました。
 
 
下記でご紹介するコラムは、民主主義(議会主義?自由主義?)とは何なのか、香港と台湾の学生運動をどう考えるか、またそれに直面する中国はいかに香港、台湾と向き合うかについて、おそらくは目前に迫る台北市長選挙を念頭に論じています。
 
 
↓↓↓↓
 
~台湾に自信なし、香港に忍耐なし、大陸は寛容を要する~
 
陳長文(法学教授、弁護士)
 
「龍」は古代中国において皇帝を示すものであった。その隠された意味は、政府に対する民の期待である。「龍」の様に民の生活を安定させ、国と民とに安泰をもたらすもの、というわけである。今日の両岸三地域はそれぞれ異なる政府体制を有しているが、もし「龍」の比喩で言うならば、台湾、香港、大陸の三匹の龍にはどこに相違点があるか?
 
 
このトピックに入る前にひとつ故事を見てみよう。
 
 
強大な力を有する一匹の龍がいた。雨を降らせる能力を持っていたため、人々は龍を神と崇めた。人々はさらに神龍廟を建て、参拝の焼香は絶えることがなかった。長く干ばつが続き雨が降らないでいると、雨を振らせてくれるよう神龍を拝んだ。
 
 
しかし龍の力は大きく、人々のコントロールを受け付けなかったために、気分の優れない時には雨を多く降らせ、洪水をもたらした。龍の力に対する人々の想いは、愛憎半ばするものとなった。ある水害の後、人々は鎖で龍を縛り上げ、動けなくしてしまった。龍はついに、悪事をする能力がなくなってしまった。
 
 
まもなくして間伐が発生し、飢饉が訪れた。人びとはようやくまた神龍の廟へやってきて、神龍に拝んで雨を降らせてもらおうと考えた。すると龍は人々を見ながら、息も絶え絶えにこう言った。「こんな状態で、まだ雨を降らせることができると思うかね?」ここで読者にお尋ねしたい。もしあなたならば、神龍の鎖を解くだろうか?
 
 
政府制度を龍に例えてみると明らかになる。つまり、束縛を受けた龍が示すのは民主政治、権力分立下にある政府である。これは台湾に比較的近い。束縛を受けない龍が喩えているのは、党の「領導」の下にある政府である。これは比較的大陸に近い。前者は機能不全に陥る危険があり、後者には権力濫用のリスクがある。そして、香港やマカオは両者の中間にある。
 
 
各人各様の回答があるだろうが、私の選択は、束縛を受けた神龍だ。
 
 
民主制度の多岐にわたるコントロールは固より、政府が善いこと悪いことをなす能力を制限するものであった。しかしその更なる本質的義は、民主は「人民が主人となる」と同時に、「人民が責任を負う」という点にある。選挙の度に人々は悟ることになる。最終的に台湾のため責任を負うのは自分自身であると。
 
 
もしここ数年の大陸の経済的成果と台湾のそれとを対比して見るならばたしかに、台湾は大陸に及ばない。もし、両岸人民の政治に対する満足度を比較して見るならば、おそらく大陸人民の政治に対する満足度のほうが、台湾人民のそれよりも高いであろうと思う。
 
 
しかし、私が台湾の政治制度を選択する理由は簡単だ。
 
 
第一の理由は、よく知れ渡った決まり文句だ。経済成長の「価値」はいくらだろうか?2兆、3兆それとも10兆?しかし「自由の空気」に価値はつけられない。台湾の政府は確かに機能不全に陥る危険がある、それでも私達の一票一票で選出したのだ。政府の能力は批判を受けるものであるが、台湾は弱者保護、権力濫用の防止、自由権の伸長、などなどにおいて不断に進歩を続けている。
 
 
第二に、ニュースを見ると台湾は混乱と喧騒にみちみちており、毎日が世界の終わりのごとくである。しかし、テレビを消して新聞を閉じてみると、台湾には非常に落ち着いて静かな一面があるということに気づくだろう。至上の美しさでも善でもないけれど、確かに、小さな善良さや幸福が生活のあらゆるところに存在している。これが、束縛を受けた龍か拘束を受けない龍かの二者択一において、筆者が束縛を受けた龍を選ぶ理由である。
 
 
このような選択に照らしてみれば、台湾、香港そして大陸は3つの「心」を持たねばならないのだ。
 
 
台湾は、自分の政治制度に自信の心を持たねばならない。香港は、政治制度改革の追求において、忍耐の心を持たねばならない。大陸は、政治改革の提議に対して寛容な心を持たねばならない。
 
 
まず台湾の自信について言うならば、台湾民主の発展が遭遇する問題は、民主の質を上げることによって改善しなければならない。民主に特効薬はない。民主の結果は、民主によって矯正することができる。これは容易なことではない、だから堅い自信を持ってそれを促していかなければならない。
 
 
次に香港の忍耐について論じるに、筆者は香港が民主を追求する努力についてこれを支持している。しかし、さらなる忍耐が必要だ。特に、「民主のための闘い」を「反中国」の心情に変えてはならない。民主のための闘いには、大陸の民衆も、必ず声をあげて応援するということはないだろうが、少なくとも「沈黙による支持」をすることはあるだろう。しかし、もし「反中国」となってしまうと、これら沈黙の支持と対立してしまうからだ。
 
 
最後に大陸の寛容について。経済発展は、たしかに不可欠のものであると同時に、ときにはバブルということもあり得る。頂点に達した時、つまり現在、経済発展の果実は政権維持のための、重要な正統性の基礎である。しかしこの種の正統性の基礎は、見たところ過渡的なものであり、代替的なものである。経済発展が頓挫した時、政権を繋ぎ止める正統性の基礎はどこにあるか?この問題は、今すぐには起きないかもしれない。しかし明日は?10年後はどうか?必ずや訪れるであろうこの未来に直面して、大陸は、各種の政治制度改革の提議に対して寛容の心を持たねばならない。というのも、それが意味するところは、国家を統治する(党によるものであるのか、あるいは憲法によるものであるのか)正統性の淵源を探し出し考え出す試みなのだ。
 
 
もし大陸が合作の方向、さらには統一の方向へ前進する希望を抱いているなら、一国二制度はせいぜい過渡的効能しかない。さらに、香港の現状から見るに、その過渡的効能の維持はますます無理をきたしてきているようだ。
 
 
合作、更には統一をしたいのならば、ある種の永続的な発展の可能性しかない、つまり「一国良制」(※引用者:一国二制度の中国語、「一國兩制」と同じ発音)である。3つの地域にそろって適用できる良い制度を実施し、みんなが同じ「一国人」になりたがるような良い制度にするのだ。
 
 
↑↑↑↑
 
 
 
 
民主主義之錯誤には民主主義で是正していくしかないのでしょうか?そうした観点からすれば、確かに学生運動の国会占拠などはただの暴挙にしか映らないのでしょう…。香港の場合には、若干性格が異なっているのはご存知のとおりです。筆者も、その点を勘案して香港を支持しているのかもしれません。
 
 
 
ところで、私の友人も何人か香港の占拠に参加していますが、彼らの話を聞いてみると非常に面白いです。
 
 
ある香港の友人は、「中国意識なんてものは微塵もない、香港意識だけ。何なら、中国意識よりも英国意識のほうが強いと思う。」なんていうことを言っていました。
 
 
また、この友人と私と、台湾人の友人とで話をしていた時、話題が台湾の独立になると、この香港人は「台湾の独立を支持する。いや、むしろ統一には絶対反対。こんな思いをするのは俺らだけで十分、反面教師にしてくれ」てなことも言っていました。
 
 
そこで試みに、「戦争をしてでも香港が独立するか、完全に人民共和国の一部になるか、二者択一ならどちらを選ぶ?」と聞いてみたところ、「あんな狭い土地さっさと捨てて、日本かアメリカに行く」と言われてしまいましたっけ…
 
 
また別の友人は、「香港人は当然中国人。けれど今の大陸は間違っている。本当の中国人は、もっと善良で誇り高いものだ。」とも言っていました。
 
 
台湾の友人にも、熱狂的な中華民国支持・蒋介石信者ー彼は現在、陸軍の軍人ですがーもいたり、バリバリの台湾独立主義者もいたり。それぞれの立場から話を聞いてみると非常に面白く、奥深いものがあります。
 

 

国家と革命 (講談社学術文庫)

国家と革命 (講談社学術文庫)

 

 

 

民主主義とは何なのか (文春新書)

民主主義とは何なのか (文春新書)

 

 

 

北一輝思想集成―国体論及び純正社会主義 日本改造法案大綱 対外論策篇ほか
 

 

 

民族という虚構

民族という虚構